※この文書は古くなっています。上記のリンク先が比較的新しいものです。
たぶん、クリスチャンは愉快な気分で読めないと思います。 我慢してください。創造主はまだ私を仕上げていません。
最近、母が洗礼を受けてクリスチャンになりました。 母も、進化論に疑問を持ったらしく悩んでいたみたいですが、 結局わからないので考えるのを止めたそうです。
どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、 実に人間的な思いというか、 自分の欲求を満たすために、 つじつま合わせがしたいだけなんだなと感じました。
創造科学を利用して聖書の権威を守ろうとするのは美しくありません。 そんなことをしたら私は怒ります。
「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。 そのようなものは論議を引き起こすだけで、 信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」 ( I テモテ 1:4 )( テトス 3:9 )
創造科学は系図に関わる空想話です。聖書はそのようなものを禁じています。
これでこの議論は終わりにするべきです。
でも誘惑に負けて、いろいろと書いてしまいました。 不愉快でなければ続きもご覧下さい。
私には信仰が必要なので教会を訪ねました。 そこで創造科学というものを知りました。 創造科学は信仰のつまずきになる悪いものです。 私は創造科学を批判するためにこの文書を書きました。
進化と創造に関する掲示板を見ていると、 どうどう巡りの果てしない空想話が続いていて見苦しいです。 書き込みをする気にはなれないので、ここで苦情を書きます。
信仰と科学を両立させるのは、とても難しい問題です。 だから、創造科学を批難する側も注意が必要だと感じました。
この世のことで疲れている人、心に誇るべきことがなにもない人、 救いを求めている人に「科学と宗教は分けて考えなさい」と言うのと 「聖書の教えは全て正しい、ただ信じなさい。」と言うのと、 どちらの方が易しいでしょうか。
「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、 神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、 宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救おうと定めたのです。」 (I コリント 1:21)
このような御言葉を知りながら、 なぜ創造科学を持ち出して知恵ある者のように振る舞うのでしょうか、 なぜ謙虚に振る舞わないのでしょうか、なぜ愚直に福音を述べ伝えないのでしょうか。 くだらない議論に熱中して、返って福音を伝えるという大切な目的を 台無しにしているのではありませんか。 だからこそ、あなた方の創造科学は、求道者の立場からも、 科学を愛する者としても、二重に許し難いのです。
たぶん、子供向けのクイズだと思います。
「これら全てのものが『ノアの大洪水』でつくられたと考えられています。」 と書いてありました。
なにか大事なことを忘れていないですか。 聖書の中では「ノアの大洪水」のときに造られたのは 「雨」と「虹」だと思っていました。 でも「雨」とか「虹」は正解に含まれていませんでした。残念です。
虹を見るたびに神は水によって再び世界を滅ぼすことはないと約束された 証であると思い起こすべきなのではなかったのでしょうか。
創造科学は人の手で、信仰を保つために造られた偶像です。
「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、 『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。 それ以上のことは悪いことです。」(マタイ 5:37)
進化論を受け入れないなら「はい」は「はい」、 「いいえ」は「いいえ」とだけ答えるべきです。 人間の手で「創造科学」という偶像を創り出すのは悪いことです。
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、 地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」 (出エジプト 20:4)(申命記 5:8)
以前は、進化論が聖書を否定するので、 信仰が保てなくなるのではないかという不安から、 創造科学が造られたと考えていました。
今では、聖書は一字一句全て正しいと完全に信じているからこそ、 当然のように創造科学を造り出したのだと思うようになりました。
「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。 及びもつかない大きなことや、奇しいことに、 私は深入りしません。」(詩篇 131:1)
しかし、あなた方は誇り、高ぶり、及びもつかない大きなことや、 奇しいことに、深入りしています。
そして私は、創造科学を批難することで自分の知恵を誇ろうという むなしい誘惑を受けるのです。だから創造科学はつまずきなのです。
「悪者は高慢を顔に表して、神を尋ね求めない。 その思いは「神はいない」の一言に尽きる。」(詩篇 10:4)
進化論がなくなれば悪者は別の理由で神の命令に逆らうだけです。しかし、 進化論を受け入れて創造科学を受け入れられない人が神を尋ね求めたとき、 あなた方がその人につまずきを与えるのです。
「つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、 つまずきをもたらす者はわざわいだ。」(マタイ 18:7)
進化論などあってもなくても信仰には大した影響はないのです。 しかし、このことで議論することはつまずきです。
進化論の問題が片付いたとしても信仰を持てるとは限らないのです。 それは次のように書いてあるからです。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、 あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、 あなたは救われるからです。」(ローマ 10:9)
私にはまだ信じることができません。
しかし、私がこのこと、信仰について深刻に考えているときに、 あなた方が創造科学を盾に聖書の権威を主張するなら、 私は自分の信仰について考えるのを後回しにして、 反対の立場を取らなければなりません。 だから、創造科学は私につまずきを与えるのです。
もしここであなた方が「進化論教育が死人の復活など無いと教えているから、 信じることができないのだ」と主張するなら、私は沈黙するしかありません。
なぜなら、進化論を知らなくても復活を信じることは難しいと思うだけでなく、 信じたいと思う気持ちと信じたくないと思う気持ちが同時に起こるので、 適当な言葉が思い付かないからです。
死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、 「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。 (使徒 17:32)
既に救われている人にとっては疑う必要はないのかもしれませんが、 私のような者にとって創造科学は信仰の妨げになっても助けにはなりません。 だからこのような苦情を書いているのです。
ところで、私自身は「信仰を持とうとするとサタン(悪魔)が邪魔をする」 という説明は正しいと思います。実際そんな気がします。
多くの人にとって「サタンが邪魔をする」という説明は 受け入れ難いのかもしれません。
私は創造科学こそがサタンの産物と考えています。 なぜなら創造科学を持ち出されると、 多くの人々は福音を聞く耳を閉ざすでしょう。 これはサタンにとって都合が良いことです。 聖書が正しいと完全に信じているために、 返って創造科学が信仰や宣教の妨げになるということに 気づき難いのだと思います。
あなた方が「進化論はサタンの産物だ」と考えるのは、 まさにサタンの陰謀なのです。
確かにローマ・カトリックのマリア崇拝は聖書に反しているでしょう。 けれども、あなた方の創造科学はもっと悪質ではありませんか。 なぜなら、マリア像が偶像だと気がつくよりも、 創造科学が偶像だと気がつくことの方がずっと難しいからです。
「愚か者は自分の道を正しいと思う。 しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴言 12:15)
どうか創造科学を宣教の道具に使うのは止めてください。 教会に導かれる人の多くは、この世のことで疲れています。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28) と書いてあるのに、創造科学を持ち出されては、返って疲れます。
都合の良い科学は認めて、都合の悪い科学はねじ曲げるというのは、 聖書を読むときに、都合の良い箇所は受け入れて、 都合の悪い箇所は受け入れないのと同じように悪いことです。
「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、 すべての道で、あなたを守るようにされる。 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が 石に打ち当たることのないようにする。」(詩篇 91:11-12)(マタイ 4:6)
あなた方は、こう書いてあるからといって「万有引力は科学ではない」 「科学は全て仮説に過ぎない」「万有引力の法則は科学的に正しくない」 と主張しないはずです。
あなた方はきっと「神が奇跡を行う時は 超科学的にその御手を延ばして私達を救ってくれる」 と説明するでしょう。つまり「神の御わざは例外」なので、 科学そのものをを否定する必要はないと説明するでしょう。 それなのに進化論については創造科学で否定する態度に 一貫性が欠けていると感じ、私は不信感を持つのです。
あなた方は、及びもつかない大きなことや、奇しいことに深入りして、 自分で何を言っているのかわからなくなっているのです。 私もなにを話せば良いのかわからなくなってしまいます。
私には創造科学は「神を試す」ことのように思えます。 悪魔に「下に身を投げてみなさい。」と言われるまま身を投げるのと同じように、 「創造科学」を造り出しているように思えるのです。次のようにです。
聖書に書いてあることは正しい。 だから飛び降りても支えてもらえるはずだ。 飛び降りてみよう。
聖書に書いてあることは正しい。 だから進化はなかったはずだ。 創造科学を造ろう。
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ 4:7 )(申命記 6:16)(出エジプト 17:7)
科学の世界に神を持ち込んではいけないというのはルールです。 たとえ人間が決めたルールだとしても、科学者達が与えられた賜物を用いて、 神の栄光を現すことを妨げるべきではありません。
「また、競技をするときも、 規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。」 (II テモテ 2:5 )
現在は科学と宗教は分離すべき時代のはずです。 数百年の昔に決められたルールを無視して科学を作り直すとは 「月の再発見」「車輪の再発明」にもなりません。
かつては、聖書に合うように自然現象を説明することが科学の役割りでした。 それがうまく行かなくなったから科学と教会は離れてしまい、 今日に至っているのが科学の歴史です。創造科学は歴史の逆行です。
それほど聖書が大切なら、なぜ絶対の真理である聖書を 他の仮説と同列に扱うように主張するのですか、不思議です。 それは聖書の権威を傷つけることにはなりませんか。
「本当の科学なら聖書と一致する」と信じるなら、 愚かな議論にふけるのではなく、 科学はルールに従って進歩し続ける限り、 いつか聖書と一致する日が訪れると信じて、 ただ「御国が来ますように」(マタイ 6:10)(ルカ 11:2) と祈るべきです。
政策を正当化するために間違った解釈で科学を利用するのは悪いことです。
聖書の権威を守るために間違った解釈で科学を利用するのは悪いことです。
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言 3:6)
こう書いてあるから宗教と科学の分離を拒否するのでしょうか。
その一方で政治と宗教の分離は認めるのは不公平な気がします。 けれども、次の御言葉が政教分離の根拠とされていることを知りました。
するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。 そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。 (マルコ 12:17)(マタイ 22:15-22)(ルカ 20:20-26)
それなら、カイザルを科学に読みかえても良いのではありませんか。
科学は、一方的に利用される立場だということでしょうか。
けれども、あなた方は創造科学を利用してまで自分達の信仰を正しいと 主張するくらいです。政治に対しても同じように手を伸ばすのではないかと 不安を感じます。実際に学校教育では進化論と同様に創造論を教えるように 裁判を起こすくらいの潜在力を持っているのですから。 私はとても不安を感じます。
科学でないものを科学として教えられる子供はどうなるのでしょうか、心配です。 科学のことで優れた賜物を受けていても、間違った教育を受けてしまったら、 神の栄光を現すことができなくなるのではないでしょうか。
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、 迫害を受けます。」(II テモテ 3:12)
私は教会によって迫害された科学者達を思い起こさずにはいられません。 キリストを信じる者は迫害を受けると書いてありますが、 今度はあなた方が迫害する側になっているのではありませんか。
地動説が聖書に反しないのに対し進化論は聖書に反する点、 進化論を主張しても刑罰を受ける心配がほとんどない点で、 地動説と進化論は状況が全く違います。
しかし、あなた方の行動は全く同じです。
だれでも、ふたりの主人に仕えることはできません。 一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。 あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。 (マタイ 6:24)(ルカ 16:13)
富を科学に読み換えることが許されるなら、 科学が正しいと信じるなら信仰は持てないのだと考え、 神を尋ね求めるのは諦めるべきなのでしょうか。そうかもしれません。 「聖書は全て神の御言葉、全てが正しい」と考えるのが、 本来の正しい信仰のあり方でしょうから。
信仰が必要になったので教会を訪ねました。そこは 生物進化論を拒否する保守的な福音派の立場を取る教会でした。
現在でも宗教対科学の論争が続いているとは知りませんでしたから、 創造科学を持ち出されたことや進化論教育が世の中を悪くした と信じている人が身近に存在していることに驚きました。
そして創造科学について調べてみると、とても悪いものだと分かりました。
創造科学は氷山の一角に過ぎないと思います。 聖書と科学の両方を知っている人間なら、誰だって空想の翼を広げるものです。 私だって空想します。しかし、それを信仰の道具として利用する人間が 実在することに私は強い懸念を感じます。 ようするに「無意味な詮索を引き起こす原理主義」が嫌いなのです。
私には創造科学の誤りを科学的に正しく指摘するだけの能力がありません。 けれども求道者の視点から、創造科学を主張することは 聖書の教えに反していると指摘することにしました。
救いを求める人がこのページをきっかけに 原理主義につまずかないことを望みます。 また、既に救われている人にとって このページが信仰の妨げにならないことを望みます。
引用には新改訳の聖書を使いました。
天にいます私たちの父よ。御国が来ますように。
許されるなら、救われない者の声に耳を傾けて下さい。
私は、創造科学という偶像を否定するため、
あなたによって導かれたと信じます。
このような試練が与えられたことを感謝します。
私たちを、つらい、苦しい争いの中に、いつまでも置かないでください。
私たちを暗闇から救い出してください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。