読むのがめんどうな人向けのまとめ:
「凡そ祈祷の時に求むる所は、之を得んと信ぜよ、然らば爾等に成らん」 マルコに因る聖福音 第11章24節
5年ほど前に創造科学批判の文書を作成しました。しかしこれは今の自分から見ると不適切な内容です。
正教会で洗礼を受けて4年近く経ち、ようやくひとつの結論を得ることができました。この結論は正教会の信者でいる限り一生変わらないでしょう。
正教会は進化論に対してどちらかと言えば否定的立場の教会です。
これには少々困っていました。私は進化論を否定することは愚かな行為だと考えているからです。
しかし、結局のところ教会は人々に対して「創世記の冒頭部分は素直に受け止めなければいけない」と教える他に道がないのだとようやく気付くことができました。主に感謝。
進化論をはじめとする科学的事実は事実として受け止め、なおかつ教会の伝統的な教えを毀損してはならないという方針でこの文書は書かれています。
まず、第一の結論として、教会の伝える教えを大切に守っていかなければいけないことについて説明します。
次に、キリスト教正教会の教理と科学に関する問答を通して強い信仰をもたなくてはいけないことを第二の結論として説明します。
最後に、ただ単に強い信仰でかたくなに教えを守ればそれでよいというわけではなく、新たに取り組むべき課題が神から与えられたのだと理解して終わります。
結論は次の通りです。
教会には旧約を土台として新約の教えを伝える役割がある。
教会は伝承、つまり聖書を含む聖伝に基いて正しい教えを伝えなくてはいけない。
キリスト教なのだからキリスト教の伝承に基いて人々に伝教するのは当然である。
もちろんキリスト教ではない別の教えをキリスト教の教えとして用いることはできない。
キリスト教ではない別の教えに基いた教えであったならば、もはやキリスト教ではない別の宗教である。
創世記には神がどのように世界をつくったかが書かれている。
しかし、創世記の記述と自然科学が教える内容は矛盾する。
そこで、この問題を解決するために、自然科学に基いてキリスト教を矛盾なく理解しようとする試みは、正しいことではない。
なぜならば、自然科学はキリスト教ではないからだ。
というわけです。
キリスト教の信仰を持つのであれば、創世記に書かれている内容は素直に受け取るべきであり、その通りであると信じなければいけません。
もちろん単に文字通りに解釈するという意味ではなく、正教会の伝統的な解説に基いて理解を深める必要があります。
これ以上どのような説明ができるというのでしょうか。 アミン、アミン。
なお、キリスト教の教えを伝えるための理解の助けとして、自然科学や他の宗教に関する事例を取り上げる程度のことは問題ないと思います。
つまり、キリスト教に関係のないことは一切語らないというように極端に偏る必要も無いと思います。
正教会は生きている教会です。伝統的な解説というのは常にアップデートされ続けています。 優れた神学者*注1が現われ、この問題を解決してくれる可能性が残っているということは我々にとって希望のはずです。
次に、進化と創造の板ばさみ状態によって生じる思い煩いを軽減するために思念した結果を問答形式で書いてみます。
現時点での私の理解にもとづいて書いています。
神は世界をつくったのか?
神は人間をつくったのか?
神は世界をどのように見たか?
神は人間をどのように見たか?
神は人間を愛しているか?
神が人間を愛しているかどうかが進化と創造になんの関係があるのか?
神は世界をどのようにつくったか?
信仰と科学は矛盾しないのか?
どこが矛盾するのか?
進化をどのように理解すればよいのか?
進化は科学的事実なのか?
なぜ進化が科学的事実といえるのか?
たったこれだけのことで事実といえるのか?
創造の証拠は旧約聖書だけでなく科学的な証拠も存在するのではないか。
創世記の冒頭に書かれている内容は科学的知識と矛盾する。どのように理解すべきか、なにか象徴的あるいは寓話的なものとして捉えるべきか?
ではどのように捉えるべきか?
なぜ書かれている通りに捉えなければいけないのか?
なぜ復活を信じると創世記を書かれている通りに捉えなければいけないのか?
なぜ深入りしてはいけないのか?
悪魔はいるのか?
創世記の冒頭に書かれた内容と科学的知識の間にある矛盾はどのように解決すればよいのか?
なぜ矛盾するのか?
つまりどういうことか、なにが言いたいのか?
神はどのように解決するか?
社会の変化とは学校で創造論を教える事か?
ではどのような社会の変化を期待しているのか?
そのような社会は実現するか?
そのためには何が必要か?
宗教的に正しい教育とは学校で正教会の教理を教えることか?
創造科学に類する疑似科学にはどう向き合うべきか?
科学と信仰は両立させる事ができるのか?
しかしどうしても気になる、どうすべきか?
どう祈るべきか?
信仰が弱いというのか?
いや、そうではなくて、 これをどう理解すればよいのか分からなくて困っているのだが?
進化と創造について人に問われた場合なんと答えれば良いか?
きちんと答えるように問い詰められたらなんと答えれば良いか?
進化はあったと思う。人に責められるのではないか?
創造論を信じている彼等は愚かではないのか?
進化は正しいと信じている。私は天国に入れないのか?
これでは正教会以外の教会の人は天国に入れないように読み取ることができるがそうなのか?
天国に入るための条件が厳し過ぎるのではないか?
進化を信じるかどうかに関わらず普通の人間が天国に入るのは不可能なのではないか?
進化は正教会の教理に反するのではないか、正教会の信仰を持つことは不可能なのではないか?
進化を信じることは不信仰の罪ではないのか?
別の罪とはなにか?
なぜ不信仰の罪にあたらないのか?
なぜ人間にはこの矛盾を解決できないのか?
なぜ神はこの矛盾を解決できると言えるのか?
正教会の教理では創世記の冒頭部分をどのように解説し理解しているか?
1日目から第6日目についての解説は?
これは宗教だ。科学ではない。分けて考えるべきではないのか?
分けて考えないでどうして平静でいられるのか、精神が引きちぎれてしまうのではないか?
そのような、全てを乗り越えたような、強い信仰を持つことは可能なのか。
あなた自身はどうなのか、あなたはこの通りに信じているのか?
あなたは不信仰で偽善でひどい人間だって知ってるぞ。なに勝手にこんな文章を書いているんだ。恥ずかしくないのか?
強い信仰があればなにも心配しなくてよい。 教会の言うことは1世紀の頃から変わっていません。 大切なことは紀元前から変わっていません。
疑いの心、願いが聞き入れられないことへの不満、 私達はこういった不信仰の罪からはなかなか逃れる事ができません。 しかし、それでも揺るぎない信仰を持つべきなのでしょう。 アミン、アミン。
ここから先は、私が思いついた単なる仮説なので、 あまり真に受けて欲しくないのですが、 思考の記録として書き残します。
二つの結論を見ました。
そうです。全くその通りです。 しかし、良く考えなくても、これは当たり前のことですね。 そんな簡単に解決できる問題なら社会問題にはならないはずです。
これは、聖像破壊運動やグレゴリイ・パラマに匹敵するキリスト教史上の大きなイベントが発生していて、我々はその渦中にいるということではないでしょうか?
すると、さらに第三の結論が必要なはずです。 まさしく優秀な神学者を神が遣わしてくださらないと解決しなさそうです。
さて、問題は:
しかし、1と3は矛盾するようです。どうやって解決すればよいでしょうか?
進化はなかったと確信して良いに違いない。
ハリストスの復活がなかったに違いない。
神は新しい課題を人間に与えたらしい。
現実に目を背けるのも嫌だし、異端に走るのも嫌だし、無神論者になるのも嫌です。嗚呼、困った。神様助けて。
このような状況ではないでしょうか?
これは過去の聖像破壊運動やパラマ論争に匹敵する難問のように思います。 しかし結局のところどちらも教会の伝統的教えが勝ってしまいました。 だから今回も似たような決着になるだろうと予想はできます。
そう考えれば安心です。 この課題をこなせば人間は神についてよりよく知ることができるのですから悲観する必要はありません。 神よ我等を救い給へ!
一見すると解決不可能です。
しかしながら、過去の事例を取り上げて、全く望みがないわけではないことを確認していきましょう。
8世紀から9世紀にかけて発生したキリスト教史に残る重大な事件です。
ハリストスが完全な神であるなら描いてはいけません。 人であるなら描くことができます。 どうしたらよいでしょうか?
伝統的にイコンは当然のように用いられましたから、恐らく7~8世紀にかけてなんらかの社会的変化があったのでしょう。 聖像破壊運動の結果、イコンは偶像ではないという結論が出され正教勝利の主日として現在でも祝われています。 ハリストスは完全な神でありながら完全な人でした。人としての性質を持ったことで描くことが可能になったのです。
人間とは何でしょうか。 人間は神の似姿、神の肖と像としてつくられたものです。 つまり、我々人間自身が神の像、生きたイコンであるというのが結論です。
これは、どんなに悪い人でもその人は神の像としてつくられた聖なるものであるという理解につながります。 そして、自分がどんなに罪深い人間であったとしても自分は神の像としてつくられたのだから、自分の罪のゆえに神の救いを軽んじてはいけない、つまり「自分は救われるにふさわしくない」などと考えてはいけない。 人間は神に愛され神自身の像に従って善いものとして造られたのだから、 善を求め続けるべきであり、 罪のゆえに救いを諦め罪を繰り返すべきではない ということを再確認することにもなります。
また、本来なら偶像ではないはずのイコンを偶像として扱うような間違った信仰の持ち方は是正されました。
聖像破壊運動は伝統的キリスト教徒にとっては悪夢のようなできごとでしたが、過ぎてみれば自分達の信仰をより確かなものとする試練だったのではないでしょうか。
残念ながら私はこの件を詳しく知らないのですが、次のような問題です。
14世紀に、グレゴリイ・パラマに代表されるアトスの修道士達は次のように証言しました。
本当にこのようなことが可能なのでしょうか、極めて非科学的です。人間が神と真に一致できるはずありません。 結果はどうなったでしょうか。議論の結果、これは聖書と聖伝にもとづいて正しいことだそうです。 神の本質を人間が知ることはできません。しかし、神のエネルギイは人間に体験できるというものです。
人間とは何でしょうか。 人間はつくられたとき、神の霊、息を吹き込まれたので、 体と「たましい」の両方をもっています。 体は物質的でこの世的なものです。 しかし、霊的なものである「たましい」に形はなく、 永遠無限の神とつながり得るというのです。
私は厳格な修道生活を実践したこともないし神の光を見たこともないのでなんとも言えません。しかし、できると言っている人が実際にいるのですから信じるしかありません。
もういちど今回の問題を再確認しましょう。
聖使徒等の証言によればハリストスは 霊魂や幽霊のような無実体な形体ではなく実体的な肉体をともなって 本当に復活したらしい。
ハリストスの復活は旧約聖書における預言の成就であり、 最初の人間アダムが犯した罪の結果=「死」に勝つための最大の奇蹟であった。
つまり創世記の冒頭の記述は象徴的、寓話的な教えではなく、 実際に起きたこと、現実的なこととして捉える必要があるらしい。
創世記の冒頭を現実的な問題として捉えるならば、 人間は進化などの間接的方法ではなく神によって直接つくられたと理解すべきだ。
ところが、進化は実際にあったし、人間は進化の結果としてつくられたというのも事実らしい。
全てが嘘で信仰を捨てた方が良いということだろうか?
しかし、聖使徒以降の過去から現代までに記憶されている聖人たちは病気を癒す奇蹟を示したり神についての様々な証言をしている。
どうやら神はいるらしい。
であるならば、創世記の記述についてより深く理解する必要があるらしい。
もし本当に神がいるならば、神は人間に御自分のことをより深く理解して欲しいと考えるのではないか、そこで新しい課題を人間に与えたのではないか。
それならば、「科学と信仰の板ばさみでつらい」とか「進化はまちがってる」とか 「科学と宗教は別だから」とか「復活はなかった」などと考えるのではなく、 「ああそうか、この困難を乗り越えたなら、より深く神を知ることができるのだな、 それはとても豊かな希望だ」と考えた方が、 より健全な信仰生活を送ることができるのではないでしょうか。
このような課題を提示されると、ああでもないこうでもないとつい頭の中がグルグルしてしまいます。
普通に考えたら解決不可能です。
余計なことは考えない方が良いのです。神学者の仕事です。私には無理なのです。 悪魔の誘惑なのです。真の祈りを妨げるのです。 神よ我を救え!
哲学や自然科学、一般の論理とは違い、キリスト教の問題です。 解決には祈りが不可欠です。
祈祷を怠り、自分ひとりの頭の中で考えるばかりならば、単なる仮説や空想にすぎません。
たとえば「神は進化という間接的方法で人間をつくったと解釈する余地があるのではないか?」とか「光あれというのはビックバンのことだったのだ」といった考えは仮説です。
仮説ではなく正当な教義・教理として認められるには万民に納得できるというだけでは不十分です。 聖書と聖伝による確かな裏づけがあり、正しいと信じるに足りるだけの検証が必要となります。
聖使徒フォマの「我が指を釘の跡に入れず、我が手を其脇に入れずば、信ぜざらん。 (Jn20:25)」 という態度はとても大切なことです。 奇蹟の二つ三つくらいは余裕で起きてくれないと納得いきません。
そして、キリスト教であるならば、単に科学的に矛盾しないことが重要なのではなく、それが主イイスス=ハリストスの死と復活、私自身の死と復活と永遠の生命に確かに関係があると説明できなければおかしいということです。 さらに、「伝統的な信仰の持ち方は間違っていなかった。初代教会からずっと続いてきた信仰と全く同じ信仰を確かに私も共有しているのだ」と確信できる説明が必要なのです。
或は、私が知らないだけで既にこの問題に関する取り組みが始まっているのかもしれません。 私には自分の力で解決することはできないでしょう。 しかし問題の解決を祈ることはできます。
教会は自分ひとりで考えるところではありません。 人に相談するのは必要なことです。 神父さんに相談しましょう。 もちろん神父さんも全知全能ではありませんから 知りたいことについて的を得た答えを与えてくれるとは限りません。
私も科学と信仰のことで、 どう理解したらいいのかわからないと 神父さんに相談してみました。 この質問に対しておよそ次のようなアドバイスをもらいました。
難しくてなかなか理解できないことを 理解できるように神様助けてくださいとお祈りをして 福音書や書簡を繰返し何度も読んでみてください。 福音には神の言葉が書かれています。 サロフの聖セラフィムは毎週福音を読みました。 月曜日はマトフェイ、火曜日はマルコ、水曜日はルカ、木曜日はイオアン、 そして金曜日は聖使徒パウェルの書簡。 言葉の海の中を魚が泳ぐように神の言葉を心に感じ取って下さい。
私達の信仰はとても弱い。弱いから倒れる。 でもまた起きて立ち上がる。これの繰返しです。繰り返して強くなる。 石のように強い心、強い信仰があればなにも怖くありません。
今の時代は信仰を持つには難しい時代です。 1世紀2世紀の頃は聖使徒や聖使徒師父達の時代でしたから、 どんな疑問にも答えてもらえたでしょう。 今はどんどん信仰が弱くなっている時代です。 しかし神の働きというものはどの時代でも変わることはありません同じです。
ということなので、あまり聖書を読むのは好きではありませんが、 しかたありません。 これからもっと聖書を読んでみて何か理解できたことがあれば、 また書きましょう。 神や光栄は爾に帰す。アミン。
日本においては進化と創造のことで実際に困っている人はそれほど多くはないと思うので、 この文書の必要性には疑問を感じています。 また、人に教えてよいと祝福を受けているわけでもないので、ためらう気持ちもあります。 しかし、面白そうなので書いてみたいという欲求もあったし、正教会の教理をよりよく理解するための訓練にもなると思うので作成しました。
私は教会で教えられた内容を自分の理解に基いてこの文書を作成しましたが、素人ゆえに過不足や誤りがあると思います。 可能な限り良心的に書いたつもりですが、つまずきを与えるかもしれません。もしつまずきを与えてしまったならどうかお許し下さい。
ここから先は司祭や神学者の仕事です。私にできるのはここまでです。
科学が教えてくれる地球46億年の歴史はとても偉大で感動を与えてくれます。 宇宙はさらに大きい。 これらの科学的事実を知ったときに、神は偉大だと素直に認め神を畏れ敬い讃め崇めることは、 主の目の前に尊いと思う。
科学的な事実を事実として信じることができず、 信仰の故に他者から愚かだと馬鹿にされ非難され見下され悲しむこともまた、 主の目の前に尊いと思う。
そして、智恵の足りない自分に智恵を与えて理解できないことを理解できるようにして下さいとお祈りしながら福音を読み続け神を探し求めることも主の前に尊いと思う。
喜び楽しめよ、天には爾等の報い多ければなり。
この文書が他者の、そして誰よりも自分自身の助けとならんことを主、神に願う。 ハリストス復活!
--*注1 聞くところによると正教会の神学者は創世記の記述と進化論についての整合性がどうかよりも、 聖書の記述が人間にとってどのような意味があるのか、何が啓示されているのか、ということに関心があるので、 この種の議論にはあまり関心がないそうだ。
*注2 正教会の理解では人間は「肉体」と「霊」(たましい)と「神゜」(しん)の三つから成り立っている。 (I Cor 15:44.) (人によっては「肉体」と「魂」と「霊」などと言が同じである) 「霊」は理性、知性、感覚、感情、美や喜びといった精神的な要素を与える。 「神゜」は人間に神を求める力、天に向かわせる性質を与える。 どのような文化に属していても人間は神聖なものを求める性質が見出せるのは神゜によると考えられる。 これは至聖三者の神「聖神゜」とは別である。 いわゆる「霊魂」と神゜は区別する必要がある。 神゜を病んでいる人は神と教会を深く憎むような状態となる。 精神に全く異常が無くても神゜を痛めて病んだ状態、悪霊に支配された状態になり得る。 精神病は医療による治療が必要であるが、神゜の病気は祈りによる治療が必要である。 また、単に理性的に神や教会を否定することは神゜の疾病とはみなされない。 例えば聖使徒パウェルはキリスト教を迫害していたが、復活したイイスス・ハリストスと出会い改心している。 もし、神゜が損なわれていたら改心しなかったはずである。
イイスス・ハリストス → イエス・キリスト
聖神゜ → 聖霊
至聖三者 → 三位一体の神
イサアク → イサク
マトフェイ → マタイ
イオアン → ヨハネ
パウェル → パウロ
フォマ → トマス
アミン → アーメン
聖使徒師父 → 聖使徒の弟子 つまりハリストスの孫弟子。
この文書に適用するライセンスは決めかねていますが、 とりあえず著作権は放棄していません。