科学と信仰とかに戻る

読むのがめんどうな人向けのまとめ:

  1. キリスト教にキリスト教でないものを持ち込んではいけない。創造科学に類する疑似科学の否定と仮説にすぎない創造論への懐疑。
  2. 科学的な事実は事実としてきちんと受け止めるべきだ。神が創った世界にケチをつけるのはよくない。
  3. 世の中がどう変わろうとも強い信仰、揺るぎない信仰を持たなくてはいけない。我々は初代教会から続いてきたのと同じ信仰を共有している。
  4. 多くのキリスト教徒が進化論に懐疑的なのは、聖使徒等の証言を信じるという前提に立てば意外と論理的だ。決して頭が悪いわけではない。
  5. 現代に生きる我々は、容易には解決できない新たな問題に直面している。容易に解決できないのだから自力で解決しようとしないで神に祈ろう。
願わくは、この問題がすみやかに解決されんことを! アミン。

以上ですが、よろしければ続きもお読み下さい。

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進化と創造を乗り越えるには

 「凡そ祈祷の時に求むる所は、之を得んと信ぜよ、然らば爾等に成らん」 マルコに因る聖福音 第11章24節


タイトル:進化と創造を乗り越えるには
作者名:木村真之介
作成日:2012.04.27 - 2012.05.06(難者の主日)
更新日:2018.07.18

ハリストス復活! 実に復活!


はじめに

5年ほど前に創造科学批判の文書を作成しました。しかしこれは今の自分から見ると不適切な内容です。

正教会で洗礼を受けて4年近く経ち、ようやくひとつの結論を得ることができました。この結論は正教会の信者でいる限り一生変わらないでしょう。


正教会は進化論に対してどちらかと言えば否定的立場の教会です。

これには少々困っていました。私は進化論を否定することは愚かな行為だと考えているからです。

しかし、結局のところ教会は人々に対して「創世記の冒頭部分は素直に受け止めなければいけない」と教える他に道がないのだとようやく気付くことができました。主に感謝。


この文書の概要について

進化論をはじめとする科学的事実は事実として受け止め、なおかつ教会の伝統的な教えを毀損してはならないという方針でこの文書は書かれています。

まず、第一の結論として、教会の伝える教えを大切に守っていかなければいけないことについて説明します。

次に、キリスト教正教会の教理と科学に関する問答を通して強い信仰をもたなくてはいけないことを第二の結論として説明します。

最後に、ただ単に強い信仰でかたくなに教えを守ればそれでよいというわけではなく、新たに取り組むべき課題が神から与えられたのだと理解して終わります。

願わくは主我が神よ、我が栄光欲を謙遜と温柔に変えて、爾の光栄を現させ給へ。
然れども我が欲する所に依らず、爾が欲する所に依りて成るべし。

目次

  1. はじめに
  2. 第一の結論
  3. 進化と創造に関連する問答
  4. 第二の結論
  5. 新しい課題
  6. あとがき

第一の結論

結論は次の通りです。

教会には旧約を土台として新約の教えを伝える役割がある。

教会は伝承、つまり聖書を含む聖伝に基いて正しい教えを伝えなくてはいけない。

キリスト教なのだからキリスト教の伝承に基いて人々に伝教するのは当然である。

もちろんキリスト教ではない別の教えをキリスト教の教えとして用いることはできない。

キリスト教ではない別の教えに基いた教えであったならば、もはやキリスト教ではない別の宗教である。

創世記には神がどのように世界をつくったかが書かれている。

しかし、創世記の記述と自然科学が教える内容は矛盾する。

そこで、この問題を解決するために、自然科学に基いてキリスト教を矛盾なく理解しようとする試みは、正しいことではない。

なぜならば、自然科学はキリスト教ではないからだ。

というわけです。

キリスト教の信仰を持つのであれば、創世記に書かれている内容は素直に受け取るべきであり、その通りであると信じなければいけません。

もちろん単に文字通りに解釈するという意味ではなく、正教会の伝統的な解説に基いて理解を深める必要があります。

これ以上どのような説明ができるというのでしょうか。 アミン、アミン。

なお、キリスト教の教えを伝えるための理解の助けとして、自然科学や他の宗教に関する事例を取り上げる程度のことは問題ないと思います。

つまり、キリスト教に関係のないことは一切語らないというように極端に偏る必要も無いと思います。

正教会は生きている教会です。伝統的な解説というのは常にアップデートされ続けています。 優れた神学者*注1が現われ、この問題を解決してくれる可能性が残っているということは我々にとって希望のはずです。

進化と創造に関連する問答

次に、進化と創造の板ばさみ状態によって生じる思い煩いを軽減するために思念した結果を問答形式で書いてみます。

現時点での私の理解にもとづいて書いています。

神は世界をつくったのか?

→  つくった。

神は人間をつくったのか?

→  つくった。

神は世界をどのように見たか?

→  よいものと見た。

神は人間をどのように見たか?

→  よいもの、きよいもの、愛すべきものと見た。

神は人間を愛しているか?

→  愛している。

神が人間を愛しているかどうかが進化と創造になんの関係があるのか?

→  神に愛されていると信じることができないなら、このような神話や伝説の類としか思えない創造や復活の話を信じることはできないから。(と私は思う)

神は世界をどのようにつくったか?

→  創世記に書いてある通りにつくった。

信仰と科学は矛盾しないのか?

→  矛盾する。

どこが矛盾するのか?

→  教会の伝承にある数々の奇蹟は科学的知識と矛盾する。矛盾しないとしたら奇蹟ではない。

進化をどのように理解すればよいのか?

→  神がつくった現実の世界で進化が起きているのだから、これが現実だと素直に認めるべきである。

進化は科学的事実なのか?

→  科学的事実である。

なぜ進化が科学的事実といえるのか?

→  進化論の手短な証明:
  1. 生物には必ず親となる生きた生物が必要だ。
  2. 生物は多種多様で互いにとても異なっている。
  3. 単純な生物は複雑な生物よりも古くから存在した。
上記をあわせて考えると複雑な生物は単純な生物から進化してきたと考えざるを得ない。

たったこれだけのことで事実といえるのか?

→  事実といえる。例をあげて考えてみましょう。

地球は丸い:
  1. 太陽は月よりもずっと遠いところにある。
  2. 高いところの方が遠くまで見える。
  3. 夏至の南中時の太陽光線はアレクサンドリアでは少し傾いて、南のシエネでは垂直に届く。
地球は丸いに違いない。大きさも計算できるに違いない。

引力はある:
  1. 地球は丸いに違いない。
  2. 地球上のどの地点でも物体は地面に対して垂直に落ちる。
ならば地球の中心に向けてなんらかの力が働いているに違いない。

このような単純な事実を積み重ねて科学は発達してきました。
それに対して、主の復活を証明するものは預言と聖使徒が残した福音だけです。 進化論よりも遥かに弱い証拠です。 創造にいたっては旧約聖書だけです。
(お察しのとおり古代人は決して頭の悪い人々ではありませんでした。)

創造の証拠は旧約聖書だけでなく科学的な証拠も存在するのではないか。

→  それは創造論的な思い込みです。 それならば上記の進化論の手短な証明以外にも進化の証拠はたくさんあるでしょう。 しかし、この文書の目的から外れるので、 この疑問に関しては科学的に創造論を否定している他のサイト http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/ などを参照してください。

創世記の冒頭に書かれている内容は科学的知識と矛盾する。どのように理解すべきか、なにか象徴的あるいは寓話的なものとして捉えるべきか?

→  象徴的・寓話的なものとして捉えるべきではない。

ではどのように捉えるべきか?

→  素直に、書かれている通りに受け止めなければいけない。しかし深入りしてはいけない。

なぜ書かれている通りに捉えなければいけないのか?

→  教会では主の復活が実際にあったと信じるから。

なぜ復活を信じると創世記を書かれている通りに捉えなければいけないのか?

→  次のとおりです。
  1. 聖使徒等は復活した主に出会ったと証言した。
  2. 彼らの証言を信じるならば主の復活は実際に起きたことである。
  3. 主の復活は死に勝つためであった。
  4. 死とは最初の人間アダムが神に対して罪を犯した結果である。
  5. 創世記の冒頭に書かれている記述が現実のできごとでないなら主の復活は起こりえない。
  6. 伝承では主は地獄に降り、死を滅ぼし、アダムを己と共に起し、諸人を地獄より救ったとされている。
  7. 教会はこのようにしか伝えていない。
このように伝えられているので創世記の記述は科学的知識とは関係なしに現実的な事実として受け止めざるを得ない。 あとはこの話しを改変せずに素直に信じるかどうかの個々人の信仰の問題でしょう。

なぜ深入りしてはいけないのか?

→  無益な空想に陥るから。時間を無駄にし、真の祈りを妨げる。悪魔はこれを望む。

悪魔はいるのか?

→  いる。

創世記の冒頭に書かれた内容と科学的知識の間にある矛盾はどのように解決すればよいのか?

→  人間には解決できない。しかし神には解決できる。人間にできる解決策は神に祈ること。

なぜ矛盾するのか?

→  わからない。神のすることは人間の理解を超えている。神は矛盾しないが人間は矛盾する。人間は全知全能ではない。

つまりどういうことか、なにが言いたいのか?

→  人間はこのことで心配する必要はない。神が解決する。

神はどのように解決するか?

→  わからない。しかし例えば優れた神学者を遣わして万民に受け入れられるような解説を用意する。 あるいは人々の心を養って誰もがこの問題につまずかないような社会の変化をもたらすことなどが考えられる。

社会の変化とは学校で創造論を教える事か?

→  それは反対につまずきになる。その結果この文書を作成することになった。

ではどのような社会の変化を期待しているのか?

→  進化はなかったと目くじらを立てて主張する人々がいなくなる平和な社会。

そのような社会は実現するか?

→  あと1~2世紀もすれば進化論を否定しようと思う人は誰もいなくなるでしょう。

そのためには何が必要か?

→  科学的に正しい教育と宗教的に正しい教育を全ての人が受けられるようにすること。

宗教的に正しい教育とは学校で正教会の教理を教えることか?

→  日本であれば仏教、神道、キリスト教、イスラム教など代表的な宗教の教理を可能な限り正確に知る機会を与えること。同じ宗教でも宗派・教派ごとに違いがあることを認識できるようにすること。
進化と創造の対立構造では進化論を支持する側は宗教的知識が無さ過ぎるために相手の意図を読み取ることができずに困惑し、 キリスト教徒でさえ自分の宗教の立場を正確に知らないために誤解によって進化論を否定あるいは肯定するという的外れな状態に陥っていないでしょうか。

創造科学に類する疑似科学にはどう向き合うべきか?

→  避けるべき。

科学と信仰は両立させる事ができるのか?

→  むしろ対立させる必要は無い。

しかしどうしても気になる、どうすべきか?

→  祈るべき。

どう祈るべきか?

→  信仰が強められるように祈るべき。

信仰が弱いというのか?

→  救いへの確信が得られないから気になるのではないでしょうか。

いや、そうではなくて、 これをどう理解すればよいのか分からなくて困っているのだが?

→  それは、・・・私もです。

進化と創造について人に問われた場合なんと答えれば良いか?

→  わからないと答えればよい。

きちんと答えるように問い詰められたらなんと答えれば良いか?

→  信じている通りに答えればよい。

進化はあったと思う。人に責められるのではないか?

→  堪えるしかないよ。

創造論を信じている彼等は愚かではないのか?

→  7世紀の聖人シリヤのイサアクによれば熱心とは人間にとって不健康な状態だそうです。
彼等は尊敬に値する強い信仰の持ち主です。天国は彼等のものなればなり。

進化は正しいと信じている。私は天国に入れないのか?

→  正教会の教理に基いてイイスス=ハリストスを主=神と認め、口で告白し、信じ、洗礼を受け、 教会の戒めをまもり、死に到るまで信仰を捨てず、神に対して罪を犯さず、罪を犯したなら痛悔し、 ふさわしい状態でハリストスの聖体を受けたなら天国に入れる。

これでは正教会以外の教会の人は天国に入れないように読み取ることができるがそうなのか?

→  教会は一つです。分派や分裂は認められません。 「狭き門Mt7:13」から入るべきです。 彼等が救われるかどうかは心配ですが、それよりも自分の心配をすべきです。

天国に入るための条件が厳し過ぎるのではないか?

→  簡単に入れるなら天国の価値は低いでしょう。

進化を信じるかどうかに関わらず普通の人間が天国に入るのは不可能なのではないか?

→  天国に入れるかどうかは神が決めます。信じてこのように行うしかありません。

進化は正教会の教理に反するのではないか、正教会の信仰を持つことは不可能なのではないか?

→  信経:ニケア・コンスタンティノープル信条には進化論に矛盾する記述はありません。

進化を信じることは不信仰の罪ではないのか?

→  単に科学的な知識として進化は正しいと信じているのであれば 不信仰の罪にはあたりません。 しかし、教会では死が罪の結果であると教えています。 これを否定してしまうと不信仰の罪にあたります。 また、別の罪に陥っていないかを調べるべきです。

別の罪とはなにか?

→  食欲を満たすように知的好奇心を満足させたいだけではないか、 進化を否定する人に対して怒りを覚えていないか、 必要以上に思い煩っていないか、 問題を解決することによる栄光欲が心に潜んでいないか、 傲慢になっていないか。

なぜ不信仰の罪にあたらないのか?

→  この矛盾は人間には解決できないからです。つまり神が解決する問題です。だから人間はこのことで心配する必要はありません。

なぜ人間にはこの矛盾を解決できないのか?

→  できないからです。教会の伝える天地創造の記述と科学的事実は矛盾します。矛盾するふたつの事柄を、片方もしくは両方を改変せずに、矛盾しないようにすることは人間にはできません。

なぜ神はこの矛盾を解決できると言えるのか?

→  神にできないことはないからです。

正教会の教理では創世記の冒頭部分をどのように解説し理解しているか?

→  世界は、父と子と聖神゜の一体にして分かれざる聖三者によって創造された。父だけでつくったのではない。子も聖神゜も世の始まる前からいた。子も聖神゜も被造物ではない。
世界は完全に無からつくられた。つまり事前に原料があり、なんらかの材料を利用してつくられたのではない。
天とは見えない世界、神と天使等の世界、人間には知ることのできない世界のことである。
天使には神に似せて自由な意志が与えられた。
自由な意志によって神のようになりたいと欲した天使は神に反した。これが悪魔である。
悪は神によってつくられたのではない。自由な意志を与えられた者が神に反するという選択をしたことから生じた。
地とは人間の世界、見ることのできる世界、人間が知ることのできる世界、この世、時間や物質的な性質に縛られている世界である。
天は地と違い時間や空間といった概念で縛られることのない永遠無限の世界である。
だから悪魔は永遠に悪のままである。人間のように限られた時間の中で神から離れたり悔改めて神に立ち返ることはない。
同じように、人がその人生において神を選んだなら、 死んで復活して永遠の生命に預るとき、その人は永遠に神と共にある。
しかし、人がその人生において神を選ばなかったなら、死んで復活するときは神を目の前にしながら永遠に神を否定し続ける状態となる。これを地獄という。
神は世界と人間をけがれた悪いものとしてではなく、善いものきよいものとしてつくった。そしてこれらを愛している。
1日は文字通りの24時間ではなく一定の期間を表す「時代」や「紀」として理解する。
現代は第7日目の時代である。つまり第7日目は現在も継続中である。
主の復活は8日目のできごととして理解する。世の終わりとは第7日が終るとき。復活後の来世の世界は8日目として理解する。
つまり日曜日=主日は1日目であり8日目でもある。
神は神自身の「肖」と「像」に従って人間つまりアダムをつくった。
「像」は自由な意志、良心、神を求める力、神に近づくための出発点。「肖」はその実現や完成としての「神に似たもの」を意味する。人間は最初から完成されたものではなく成長するものとしてつくられた。
人間には神の息が吹き込まれ、霊的なもの「たましい」が与えられた。
人間は肉体と霊「たましい」(神゜)*注2がひとつになった状態、生きている状態が本来の姿である。
「死」とは肉体とたましいが別れた状態である。 人間にとって死は「つくられたときの本来の姿」とは違う不自然な状態である。
神は人間に子を産み育て世界を管理するように命じた。 子供を作らず資源をむさぼる生活は良くない。
神は女を男の助け手としてつくった。人が独りでいるのはよくない。男には女の助けが必要だ。
楽園では神と人間が共にあった。よいところであった。天国に入るということはこの楽園よりもさらに優れた天に到ることである。
蛇は誘惑者つまり悪魔である。
女は誘惑に従い神に反した。つまり罪を犯した。
男は女に従い罪を犯した。
男は罪を女のせいにした。
女エヴァは蛇のせいにした。
人間は神に許しを請わなかった。悔い改めなかった。
結局人間は自由な意志をつかって罪を犯した。
罪の結果として世界に死が入った。
しかし神は人間を救うためにハリストスの死と復活についての預言をした。彼は死に降り復活し悪魔を踏み破ると。
神の似姿としての「肖」は罪によって失われたが「像」は完全には失われなかった。
パンを裂く儀式、つまり聖体礼儀とは1日目の創世から8日目の主の復活までを再現し、今生きている人間を聖体によって神と一体とし天に属している状態に遷すという奥密な儀式である。
神は、最初の人間が善悪の知識の実を食べることによって死ぬものとなったように、今生きている人間がハリストスの聖体を食べることによって生命を得るという奇異な方法で救いを実現している。

1日目から第6日目についての解説は?

→  私も詳しくは知らないので神父さんに聞いてみて下さい。

これは宗教だ。科学ではない。分けて考えるべきではないのか?

→  そうですね。
 ・ ・ ・ いや、むしろ分けて考える必要はないかもしれません。

分けて考えないでどうして平静でいられるのか、精神が引きちぎれてしまうのではないか?

→  科学的事実を事実として認めながら、教会の教えを信じても、肉体はちぎれない、心もひとつのままです。 精神が引きちぎれてしまうと感じるのは、神ではなく自分の力を頼み、自分の力でなんとかしようとするからではないでしょうか。これは思い煩いの罪といいます。 強い信仰を持つべきです。

そのような、全てを乗り越えたような、強い信仰を持つことは可能なのか。

→  人間にはできなくても神にはできます。 理由は何であれ、打ちのめされて、信じられなくなって、 それでも何度でも立ち上がって、 信仰を守っていかなくてはいけないのだと思います。

あなた自身はどうなのか、あなたはこの通りに信じているのか?

→  私が忠実に信じているかどうかと、あなたの救いとの間になんの関係があるでしょうか。 確かに私にこのような強い信仰があったら思い煩うこともなくなるのでしょうね。

あなたは不信仰で偽善でひどい人間だって知ってるぞ。なに勝手にこんな文章を書いているんだ。恥ずかしくないのか?

→  そうですね。ごめんなさい。確かに私は不信仰で偽善者で欲張りで思い上がりも甚だしい恥を恥とも思わない愚か者です。 しかし、これも聖神゜主生命を施す者の導きだと信じて信仰の糧とすべきではないでしょうか。 そして、どうぞ私とあなたの救いのために神に祈って下さい。

第二の結論

強い信仰があればなにも心配しなくてよい。 教会の言うことは1世紀の頃から変わっていません。 大切なことは紀元前から変わっていません。

疑いの心、願いが聞き入れられないことへの不満、 私達はこういった不信仰の罪からはなかなか逃れる事ができません。 しかし、それでも揺るぎない信仰を持つべきなのでしょう。 アミン、アミン。

新しい課題

ここから先は、私が思いついた単なる仮説なので、 あまり真に受けて欲しくないのですが、 思考の記録として書き残します。

二つの結論を見ました。

  1. キリスト教にキリスト教でないものを持ち込まない。
  2. 強い信仰を持つ。

そうです。全くその通りです。 しかし、良く考えなくても、これは当たり前のことですね。 そんな簡単に解決できる問題なら社会問題にはならないはずです。

これは、聖像破壊運動やグレゴリイ・パラマに匹敵するキリスト教史上の大きなイベントが発生していて、我々はその渦中にいるということではないでしょうか?

すると、さらに第三の結論が必要なはずです。 まさしく優秀な神学者を神が遣わしてくださらないと解決しなさそうです。

なにが問題なのか

さて、問題は:

  1. 進化は実際に起きたことのようだ。人間は進化の結果できたようだ。
  2. ハリストスの復活も実際に起きたことのようだ。
  3. ハリストスの復活が事実なら創世記の記述もまた事実のようだ。

しかし、1と3は矛盾するようです。どうやって解決すればよいでしょうか?

進化はなかったと確信して良いに違いない。

→  これは現実的な問題として捉えると間違い。

ハリストスの復活がなかったに違いない。

→  これは単なる異端。キリスト教ですらないと思う。

神は新しい課題を人間に与えたらしい。

→  これはどうやら確からしい。

現実に目を背けるのも嫌だし、異端に走るのも嫌だし、無神論者になるのも嫌です。嗚呼、困った。神様助けて。

このような状況ではないでしょうか?

これは過去の聖像破壊運動やパラマ論争に匹敵する難問のように思います。 しかし結局のところどちらも教会の伝統的教えが勝ってしまいました。 だから今回も似たような決着になるだろうと予想はできます。

そう考えれば安心です。 この課題をこなせば人間は神についてよりよく知ることができるのですから悲観する必要はありません。 神よ我等を救い給へ!

解決は可能か?

一見すると解決不可能です。

しかしながら、過去の事例を取り上げて、全く望みがないわけではないことを確認していきましょう。

聖像破壊運動

8世紀から9世紀にかけて発生したキリスト教史に残る重大な事件です。

  1. 神を描いてはいけない。彫ってもいけない
  2. ハリストスは完全な人でもあるが完全な神である
  3. イコンは描いてはいけないものを描いた偶像である

ハリストスが完全な神であるなら描いてはいけません。 人であるなら描くことができます。 どうしたらよいでしょうか?

伝統的にイコンは当然のように用いられましたから、恐らく7~8世紀にかけてなんらかの社会的変化があったのでしょう。 聖像破壊運動の結果、イコンは偶像ではないという結論が出され正教勝利の主日として現在でも祝われています。 ハリストスは完全な神でありながら完全な人でした。人としての性質を持ったことで描くことが可能になったのです。

人間とは何でしょうか。 人間は神の似姿、神の肖と像としてつくられたものです。 つまり、我々人間自身が神の像、生きたイコンであるというのが結論です。

これは、どんなに悪い人でもその人は神の像としてつくられた聖なるものであるという理解につながります。 そして、自分がどんなに罪深い人間であったとしても自分は神の像としてつくられたのだから、自分の罪のゆえに神の救いを軽んじてはいけない、つまり「自分は救われるにふさわしくない」などと考えてはいけない。 人間は神に愛され神自身の像に従って善いものとして造られたのだから、 善を求め続けるべきであり、 罪のゆえに救いを諦め罪を繰り返すべきではない ということを再確認することにもなります。

また、本来なら偶像ではないはずのイコンを偶像として扱うような間違った信仰の持ち方は是正されました。

聖像破壊運動は伝統的キリスト教徒にとっては悪夢のようなできごとでしたが、過ぎてみれば自分達の信仰をより確かなものとする試練だったのではないでしょうか。

グレゴリイ・パラマ論争

残念ながら私はこの件を詳しく知らないのですが、次のような問題です。

14世紀に、グレゴリイ・パラマに代表されるアトスの修道士達は次のように証言しました。

人間は厳格な修行と絶え間ない祈りを通して、神との真の交わりを体験することができる。

本当にこのようなことが可能なのでしょうか、極めて非科学的です。人間が神と真に一致できるはずありません。 結果はどうなったでしょうか。議論の結果、これは聖書と聖伝にもとづいて正しいことだそうです。 神の本質を人間が知ることはできません。しかし、神のエネルギイは人間に体験できるというものです。

人間とは何でしょうか。 人間はつくられたとき、神の霊、息を吹き込まれたので、 体と「たましい」の両方をもっています。 体は物質的でこの世的なものです。 しかし、霊的なものである「たましい」に形はなく、 永遠無限の神とつながり得るというのです。

私は厳格な修道生活を実践したこともないし神の光を見たこともないのでなんとも言えません。しかし、できると言っている人が実際にいるのですから信じるしかありません。

今回の問題

もういちど今回の問題を再確認しましょう。

聖使徒等の証言によればハリストスは 霊魂や幽霊のような無実体な形体ではなく実体的な肉体をともなって 本当に復活したらしい。

ハリストスの復活は旧約聖書における預言の成就であり、 最初の人間アダムが犯した罪の結果=「死」に勝つための最大の奇蹟であった。

つまり創世記の冒頭の記述は象徴的、寓話的な教えではなく、 実際に起きたこと、現実的なこととして捉える必要があるらしい。

創世記の冒頭を現実的な問題として捉えるならば、 人間は進化などの間接的方法ではなく神によって直接つくられたと理解すべきだ。

ところが、進化は実際にあったし、人間は進化の結果としてつくられたというのも事実らしい。

全てが嘘で信仰を捨てた方が良いということだろうか?

しかし、聖使徒以降の過去から現代までに記憶されている聖人たちは病気を癒す奇蹟を示したり神についての様々な証言をしている。

どうやら神はいるらしい。

であるならば、創世記の記述についてより深く理解する必要があるらしい。

もし本当に神がいるならば、神は人間に御自分のことをより深く理解して欲しいと考えるのではないか、そこで新しい課題を人間に与えたのではないか。

それならば、「科学と信仰の板ばさみでつらい」とか「進化はまちがってる」とか 「科学と宗教は別だから」とか「復活はなかった」などと考えるのではなく、 「ああそうか、この困難を乗り越えたなら、より深く神を知ることができるのだな、 それはとても豊かな希望だ」と考えた方が、 より健全な信仰生活を送ることができるのではないでしょうか。

注意点

このような課題を提示されると、ああでもないこうでもないとつい頭の中がグルグルしてしまいます。

普通に考えたら解決不可能です。

余計なことは考えない方が良いのです。神学者の仕事です。私には無理なのです。 悪魔の誘惑なのです。真の祈りを妨げるのです。 神よ我を救え!

哲学や自然科学、一般の論理とは違い、キリスト教の問題です。 解決には祈りが不可欠です。

祈祷を怠り、自分ひとりの頭の中で考えるばかりならば、単なる仮説や空想にすぎません。

たとえば「神は進化という間接的方法で人間をつくったと解釈する余地があるのではないか?」とか「光あれというのはビックバンのことだったのだ」といった考えは仮説です。

仮説ではなく正当な教義・教理として認められるには万民に納得できるというだけでは不十分です。 聖書と聖伝による確かな裏づけがあり、正しいと信じるに足りるだけの検証が必要となります。

聖使徒フォマの「我が指を釘の跡に入れず、我が手を其脇に入れずば、信ぜざらん。 (Jn20:25)」 という態度はとても大切なことです。 奇蹟の二つ三つくらいは余裕で起きてくれないと納得いきません。

そして、キリスト教であるならば、単に科学的に矛盾しないことが重要なのではなく、それが主イイスス=ハリストスの死と復活、私自身の死と復活と永遠の生命に確かに関係があると説明できなければおかしいということです。 さらに、「伝統的な信仰の持ち方は間違っていなかった。初代教会からずっと続いてきた信仰と全く同じ信仰を確かに私も共有しているのだ」と確信できる説明が必要なのです。

或は、私が知らないだけで既にこの問題に関する取り組みが始まっているのかもしれません。 私には自分の力で解決することはできないでしょう。 しかし問題の解決を祈ることはできます。

自分独りで考えない

教会は自分ひとりで考えるところではありません。 人に相談するのは必要なことです。 神父さんに相談しましょう。 もちろん神父さんも全知全能ではありませんから 知りたいことについて的を得た答えを与えてくれるとは限りません。

私も科学と信仰のことで、 どう理解したらいいのかわからないと 神父さんに相談してみました。 この質問に対しておよそ次のようなアドバイスをもらいました。

難しくてなかなか理解できないことを 理解できるように神様助けてくださいとお祈りをして 福音書や書簡を繰返し何度も読んでみてください。 福音には神の言葉が書かれています。 サロフの聖セラフィムは毎週福音を読みました。 月曜日はマトフェイ、火曜日はマルコ、水曜日はルカ、木曜日はイオアン、 そして金曜日は聖使徒パウェルの書簡。 言葉の海の中を魚が泳ぐように神の言葉を心に感じ取って下さい。

私達の信仰はとても弱い。弱いから倒れる。 でもまた起きて立ち上がる。これの繰返しです。繰り返して強くなる。 石のように強い心、強い信仰があればなにも怖くありません。

今の時代は信仰を持つには難しい時代です。 1世紀2世紀の頃は聖使徒や聖使徒師父達の時代でしたから、 どんな疑問にも答えてもらえたでしょう。 今はどんどん信仰が弱くなっている時代です。 しかし神の働きというものはどの時代でも変わることはありません同じです。

ということなので、あまり聖書を読むのは好きではありませんが、 しかたありません。 これからもっと聖書を読んでみて何か理解できたことがあれば、 また書きましょう。 神や光栄は爾に帰す。アミン。

あとがき

日本においては進化と創造のことで実際に困っている人はそれほど多くはないと思うので、 この文書の必要性には疑問を感じています。 また、人に教えてよいと祝福を受けているわけでもないので、ためらう気持ちもあります。 しかし、面白そうなので書いてみたいという欲求もあったし、正教会の教理をよりよく理解するための訓練にもなると思うので作成しました。

私は教会で教えられた内容を自分の理解に基いてこの文書を作成しましたが、素人ゆえに過不足や誤りがあると思います。 可能な限り良心的に書いたつもりですが、つまずきを与えるかもしれません。もしつまずきを与えてしまったならどうかお許し下さい。

ここから先は司祭や神学者の仕事です。私にできるのはここまでです。

科学が教えてくれる地球46億年の歴史はとても偉大で感動を与えてくれます。 宇宙はさらに大きい。 これらの科学的事実を知ったときに、神は偉大だと素直に認め神を畏れ敬い讃め崇めることは、 主の目の前に尊いと思う。

科学的な事実を事実として信じることができず、 信仰の故に他者から愚かだと馬鹿にされ非難され見下され悲しむこともまた、 主の目の前に尊いと思う。

そして、智恵の足りない自分に智恵を与えて理解できないことを理解できるようにして下さいとお祈りしながら福音を読み続け神を探し求めることも主の前に尊いと思う。

喜び楽しめよ、天には爾等の報い多ければなり。

この文書が他者の、そして誰よりも自分自身の助けとならんことを主、神に願う。 ハリストス復活!

--
Ephrem Kimura Shinnosuke.
2012.05.04(携香女の主日後の金曜)

*注1 聞くところによると正教会の神学者は創世記の記述と進化論についての整合性がどうかよりも、 聖書の記述が人間にとってどのような意味があるのか、何が啓示されているのか、ということに関心があるので、 この種の議論にはあまり関心がないそうだ。

*注2  正教会の理解では人間は「肉体」と「霊」(たましい)と「神゜」(しん)の三つから成り立っている。 (I Cor 15:44.) (人によっては「肉体」と「魂」と「霊」などと言が同じである) 「霊」は理性、知性、感覚、感情、美や喜びといった精神的な要素を与える。 「神゜」は人間に神を求める力、天に向かわせる性質を与える。 どのような文化に属していても人間は神聖なものを求める性質が見出せるのは神゜によると考えられる。 これは至聖三者の神「聖神゜」とは別である。 いわゆる「霊魂」と神゜は区別する必要がある。 神゜を病んでいる人は神と教会を深く憎むような状態となる。 精神に全く異常が無くても神゜を痛めて病んだ状態、悪霊に支配された状態になり得る。 精神病は医療による治療が必要であるが、神゜の病気は祈りによる治療が必要である。 また、単に理性的に神や教会を否定することは神゜の疾病とはみなされない。 例えば聖使徒パウェルはキリスト教を迫害していたが、復活したイイスス・ハリストスと出会い改心している。 もし、神゜が損なわれていたら改心しなかったはずである。

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正教会用語・人名

イイスス・ハリストス → イエス・キリスト
聖神゜ → 聖霊
至聖三者 → 三位一体の神
イサアク → イサク
マトフェイ → マタイ
イオアン → ヨハネ
パウェル → パウロ
フォマ → トマス
アミン → アーメン
聖使徒師父 → 聖使徒の弟子 つまりハリストスの孫弟子。

更新履歴

2013.03.08
教理に関する部分で、人間は「肉体」と「霊」と「神゜」からできているという脚注を追加。
2018.07.18
正教会の神学者達はこの問題に対する関心が薄いという脚注を追加。

ライセンスについて

この文書に適用するライセンスは決めかねていますが、 とりあえず著作権は放棄していません。


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