ブルーの背景は2009年3月1日で断酪の主日に追記したもの
※イエローの背景は2009年7月7日で前駆授洗イヲアン誕生祭に追記したもの
最終更新は2010年2月21日(正教勝利の主日)
今日は主降生2009年3月1日、断酪の主日です。これから日が昇って、聖体礼儀が終ったら聖堂の衣替えして、夕方の赦罪の晩課でいよいよ大斎って時です。
さて、自分で書いた文章に自分で突っ込みを入れる。変な感じもしますが、洗礼を受ける前と受けた後でどんなふうに考えが変わってきたのか、よいサンプルになるかもです。ちなみに突っ込みの内容が微妙に正教会っぽい文章になっています。あらかじめご了承ください。
たぶん、クリスチャンは愉快な気分で読めないと思います。 我慢してください。創造主はまだ私を仕上げていません。
これね、「私はまだこのページを仕上げていません」と書いた方が良いね。あるペンテコステ派の牧師さんが説教中に例え話で「我慢してください。創造主はまだ私を仕上げていません。」という一種のジョークとして使っていたのを頂戴したんだけどね。創造主が仕上げているかどうかは分からないけど・・・たぶんアダムを創造した時点で人間を創造し終わっているから仕上げていませんというのは良くないかもしれないな。
最近、母が洗礼を受けてクリスチャンになりました。 母も、進化論に疑問を持ったらしく悩んでいたみたいですが、 結局わからないので考えるのを止めたそうです。
これもね、困った事に一年しない位で教会行くの止めちゃったんだ。別に自分にとってはよその教会のことだから知ったことではないと言ってしまえばそれまでなんだが、教会での奉仕が十分にできないからってもめたらしいが、進化論についてちゃんと説明してくれないのも不満だったらしい。「だって科学者の言っていることと違うんだもん!」とか言われる。自分は「当たり前です。科学者は科学について語っているのであって宗教について語っているのではありません。」と言ってもイマイチ納得できないようだ。それで、またまた空しい議論になりそうなので、この辺で止めましょう。
どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、 実に人間的な思いというか、 自分の欲求を満たすために、 つじつま合わせがしたいだけなんだなと感じました。
創造科学を利用して聖書の権威を守ろうとするのは美しくありません。
そんなことをしたら私は怒ります。
でもね、目くじら立てる程のことでもないらしいよ。
創造科学は系図に関わる空想話です。聖書はそのようなものを禁じています。
これでこの議論は終わりにするべきです。
でも誘惑に負けて、いろいろと書いてしまいました。 不愉快でなければ続きもご覧下さい。
もうひとつ最近書いた方はここで止めちゃった。進歩したんだね。
私には信仰が必要なので教会を訪ねました。 そこで創造科学というものを知りました。 創造科学は信仰のつまずきになる悪いものです。 私は創造科学を批判するためにこの文書を書きました。
進化と創造に関する掲示板を見ていると、 どうどう巡りの果てしない空想話が続いていて見苦しいです。 書き込みをする気にはなれないので、ここで苦情を書きます。
信仰と科学を両立させるのは、とても難しい問題です。
だから、創造科学を批難する側も注意が必要だと感じました。
いや別に、「それはそれ、これはこれ」というだけで済むんだけど・・・。
だんだん「それはそれ、これはこれ」では済まないような気がしてきた。神様を信じようって言うお気持ちがある方は疑問を感じながらでも信じれば良いし、納得がいかないなら信じなければ良いです。信じたくないから科学的でないという理由をつけて信じないのか。信じてみようと思ったけど科学的でないから信じないのか、最初からお気持ちが無いのか。他人に対する批判とかではなくて、「創世記に書かれている天地創造の記録は科学的には正しくない」とハッキリ分かっているのだから自分のやっていることは実はものすごく愚かなことではないのかと常に自分を省みることができるのは良い事ではないかな。
この世のことで疲れている人、心に誇るべきことがなにもない人、
救いを求めている人に「科学と宗教は分けて考えなさい」と言うのと
「聖書の教えは全て正しい、ただ信じなさい。」と言うのと、
どちらの方が易しいでしょうか。
おいコラ!易しいからとか優しいからとかそうゆう理由で正しい教えで無いものを「善し」とするのは全然善くないぞ。
このような御言葉を知りながら、
なぜ創造科学を持ち出して知恵ある者のように振る舞うのでしょうか、
なぜ謙虚に振る舞わないのでしょうか、なぜ愚直に福音を述べ伝えないのでしょうか。
くだらない議論に熱中して、返って福音を伝えるという大切な目的を
台無しにしているのではありませんか。
だからこそ、あなた方の創造科学は、求道者の立場からも、
科学を愛する者としても、二重に許し難いのです。
まぁ、そうなんだけどさ、付け加えて言うならば、教派関係なく神様の存在を認めさせるために「NASA」とか「アインシュタイン」とか、そういった権威の力を借りたイカサマな都市伝説を用いるのは止めて欲しいんだわ。知っている人からすれば呆れるから。
たぶん、子供向けのクイズだと思います。
マリアナ海溝「これら全てのものが『ノアの大洪水』でつくられたと考えられています。」 と書いてありました。
なにか大事なことを忘れていないですか。 聖書の中では「ノアの大洪水」のときに造られたのは 「雨」と「虹」だと思っていました。 でも「雨」とか「虹」は正解に含まれていませんでした。残念です。
虹を見るたびに神は水によって再び世界を滅ぼすことはないと約束された
証であると思い起こすべきなのではなかったのでしょうか。
それに聖書のどこにマリアナ海溝とかグランドキャニオンとかを造ったと書いてあるんだ?イイススは他にも多くのことを為したが、いちいち書いていたら世界もその書物を載せられないと思うと聖使徒イヲアンも言っている?この箇所は正教会が聖伝の正当性を主張するときに使うところだ。プロテスタントの立場なら聖書以外に答えを求めるのは良くないのでは?それに、石油とか石炭の話が聖伝あるのか?ないと思うぞ僕は知らないけど。それにそんなこと神父さんに聞くような話でもないと思うし・・・。聖書にも載っていない、聖伝でも伝わっていない、だったらこじつけだよ。
とは言っても「聖伝」ってのは色々あって、頭を悩ますのです。
創造科学は人の手で、信仰を保つために造られた偶像です。
「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、 『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。 それ以上のことは悪いことです。」(マタイ 5:37)進化論を受け入れないなら「はい」は「はい」、 「いいえ」は「いいえ」とだけ答えるべきです。 人間の手で「創造科学」という偶像を創り出すのは悪いことです。
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、 地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」 (出エジプト 20:4)(申命記 5:8)以前は、進化論が聖書を否定するので、 信仰が保てなくなるのではないかという不安から、 創造科学が造られたと考えていました。
今では、聖書は一字一句全て正しいと完全に信じているからこそ、 当然のように創造科学を造り出したのだと思うようになりました。
「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。 及びもつかない大きなことや、奇しいことに、 私は深入りしません。」(詩篇 131:1)しかし、あなた方は誇り、高ぶり、及びもつかない大きなことや、 奇しいことに、深入りしています。
そして私は、創造科学を批難することで自分の知恵を誇ろうという
むなしい誘惑を受けるのです。だから創造科学はつまずきなのです。
聖書の解釈は難しいから良くわからないんだけど、そもそも聖書の成立の歴史とかを考えたら馬鹿みたいな話ではないだろうか。聖書という正典を定めたのは誰ですか?いつの話ですか?元々教会の必要によって福音書や書簡が書かれて、それらを何百年か時間をかけて我等の聖師父達が会議を重ねて選び出して集積したものですよ。 教会での教えを伝えるための補完機能として必要だから作られたので、 元々聖書だけで話が完結するようには作られていないですよ。それなのに聖書!聖書!と、いまいましい。 (だんだん感情的になってしまって良くないなぁ) 「聖書だけではない」と言うのは聖書を軽視して言っているのではないですよ!軽視していたら聖堂に設置されている福音書は一般信徒は触れてはいけないなんて規則はできないですよ。相当に重視していますよ。でも「聖書だけではない」ってことも大事なんです。
ちなみに聖堂に設置されている福音書って表紙にイコンが付いていて、ハリストスの言葉を伝えるための道具だからハリストスの象(かたどり)として使うので、あたかも聖書に向って拝んでいるように見えなくもないですが、違います。
進化論がなくなれば悪者は別の理由で神の命令に逆らうだけです。しかし、 進化論を受け入れて創造科学を受け入れられない人が神を尋ね求めたとき、 あなた方がその人につまずきを与えるのです。
「つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、 つまずきをもたらす者はわざわいだ。」(マタイ 18:7)進化論などあってもなくても信仰には大した影響はないのです。 しかし、このことで議論することはつまずきです。
やっぱり大した影響はないと言い切れるものではないよ。僕は創世記の始めの天地創造の話をどうやって処理したらよいのかとても悩む。
進化論の問題が片付いたとしても信仰を持てるとは限らないのです。 それは次のように書いてあるからです。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、 あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、 あなたは救われるからです。」(ローマ 10:9)
私にはまだ信じることができません。
不思議なんだが洗礼受けられたんだ。
「信仰強めてください」ってお祈りが必要だけど、
恩寵だね。今でも100%信じているとは言いがたいけど、1%くらいかな。でも毎週のようにニケヤ・コンスタンチノープル信経で「又信ず・・・第三日に聖書に叶て復活し・・・」と称えているよ。こんな事を書くと毎週定罪を喰っているような気分になるな。だからこそお祈りが必要なのだろう。
1%なんて低すぎる?それではあなたは100%?山は動きそう?
いかんいかん自分の不信仰を自慢してどうする。信仰心をパーセント数字で表すなんて意味が無いことだ。人間は必ず死ぬ。自分には信仰が必要だ。正教を選んだ。ただそれだけ。
しかし、私がこのこと、信仰について深刻に考えているときに、 あなた方が創造科学を盾に聖書の権威を主張するなら、 私は自分の信仰について考えるのを後回しにして、 反対の立場を取らなければなりません。 だから、創造科学は私につまずきを与えるのです。
もしここであなた方が「進化論教育が死人の復活など無いと教えているから、 信じることができないのだ」と主張するなら、私は沈黙するしかありません。
なぜなら、進化論を知らなくても復活を信じることは難しいと思うだけでなく、 信じたいと思う気持ちと信じたくないと思う気持ちが同時に起こるので、 適当な言葉が思い付かないからです。
死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、 「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。 (使徒 17:32)
既に救われている人にとっては疑う必要はないのかもしれませんが、
私のような者にとって創造科学は信仰の妨げになっても助けにはなりません。
だからこのような苦情を書いているのです。
まぁ、「空飛ぶスパゲッティーモンスター教団」を教えると腹抱えて喜ぶ信者さんも居ますからね・・・十人十色ということでしょうか。ようするに創造科学なんてのは腹を抱えて笑いこけるためのネタに使われるのがふさわしい低レベルなクズ議論でしかないと言いたいのだ。
あまりふざけ過ぎないように注意しましょう。
ところで、私自身は「信仰を持とうとするとサタン(悪魔)が邪魔をする」 という説明は正しいと思います。実際そんな気がします。
多くの人にとって「サタンが邪魔をする」という説明は 受け入れ難いのかもしれません。
私は創造科学こそがサタンの産物と考えています。 なぜなら創造科学を持ち出されると、 多くの人々は福音を聞く耳を閉ざすでしょう。 これはサタンにとって都合が良いことです。 聖書が正しいと完全に信じているために、 返って創造科学が信仰や宣教の妨げになるということに 気づき難いのだと思います。
あなた方が「進化論はサタンの産物だ」と考えるのは、 まさにサタンの陰謀なのです。
確かにローマ・カトリックのマリア崇拝は聖書に反しているでしょう。 けれども、あなた方の創造科学はもっと悪質ではありませんか。 なぜなら、マリア像が偶像だと気がつくよりも、 創造科学が偶像だと気がつくことの方がずっと難しいからです。
悪いか?!正教のイコンは偶像じゃないんだぞ!来週は正教勝利の主日だったな。イコンは偶像ではないとは全地公会で決まりました。ハリストスとは何だ、神が人の姿を取って目で見えるかたちで現れたではないか、それならば神の肖と像をかたどって悪いはずはないと、ダマスク聖イヲアン(床に就くときの祈祷が素晴らしい)等によって勝利。何を今更大昔の問題を蒸し返すのさ。 大昔に決着が着いたと言っても納得できない人はいるでしょうね。
「愚か者は自分の道を正しいと思う。 しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴言 12:15)
どうか創造科学を宣教の道具に使うのは止めてください。
教会に導かれる人の多くは、この世のことで疲れています。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28)
と書いてあるのに、創造科学を持ち出されては、返って疲れます。
ホントに疲れると思う。
都合の良い科学は認めて、都合の悪い科学はねじ曲げるというのは、 聖書を読むときに、都合の良い箇所は受け入れて、 都合の悪い箇所は受け入れないのと同じように悪いことです。
「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、 すべての道で、あなたを守るようにされる。 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が 石に打ち当たることのないようにする。」(詩篇 91:11-12)(マタイ 4:6)あなた方は、こう書いてあるからといって「万有引力は科学ではない」 「科学は全て仮説に過ぎない」「万有引力の法則は科学的に正しくない」 と主張しないはずです。
あなた方はきっと「神が奇跡を行う時は 超科学的にその御手を延ばして私達を救ってくれる」 と説明するでしょう。つまり「神の御わざは例外」なので、 科学そのものをを否定する必要はないと説明するでしょう。 それなのに進化論については創造科学で否定する態度に 一貫性が欠けていると感じ、私は不信感を持つのです。
あなた方は、及びもつかない大きなことや、奇しいことに深入りして、 自分で何を言っているのかわからなくなっているのです。 私もなにを話せば良いのかわからなくなってしまいます。
私には創造科学は「神を試す」ことのように思えます。 悪魔に「下に身を投げてみなさい。」と言われるまま身を投げるのと同じように、 「創造科学」を造り出しているように思えるのです。次のようにです。
聖書に書いてあることは正しい。 だから飛び降りても支えてもらえるはずだ。 飛び降りてみよう。
聖書に書いてあることは正しい。 だから進化はなかったはずだ。 創造科学を造ろう。
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ 4:7 )(申命記 6:16)(出エジプト 17:7)科学の世界に神を持ち込んではいけないというのはルールです。 たとえ人間が決めたルールだとしても、科学者達が与えられた賜物を用いて、 神の栄光を現すことを妨げるべきではありません。
「また、競技をするときも、 規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。」 (II テモテ 2:5 )現在は科学と宗教は分離すべき時代のはずです。 数百年の昔に決められたルールを無視して科学を作り直すとは 「月の再発見」「車輪の再発明」にもなりません。
かつては、聖書に合うように自然現象を説明することが科学の役割りでした。 それがうまく行かなくなったから科学と教会は離れてしまい、 今日に至っているのが科学の歴史です。創造科学は歴史の逆行です。
それほど聖書が大切なら、なぜ絶対の真理である聖書を 他の仮説と同列に扱うように主張するのですか、不思議です。 それは聖書の権威を傷つけることにはなりませんか。
「本当の科学なら聖書と一致する」と信じるなら、
愚かな議論にふけるのではなく、
科学はルールに従って進歩し続ける限り、
いつか聖書と一致する日が訪れると信じて、
ただ「御国が来ますように」(マタイ 6:10)(ルカ 11:2)
と祈るべきです。
一致されても困るけどね・・・。信仰が世俗の学問に引きずり下ろされるのだから、そんな日は来なくて良い。
政策を正当化するために間違った解釈で科学を利用するのは悪いことです。
自分は二酸化炭素地球温暖化説が大嫌いなんです。太陽も水蒸気も無視して二酸化炭素ばかりに着目するのはアホらしい。二酸化炭素の排出量をゼロにしたら温暖化が止まるの?それより
建物の天井を高くした方が良いよ。
それから、二酸化炭素以前に神様から預かった資源なのだから、大切に使うのは当然だろう。難しいな。ついつい無駄遣いしてしまうから。でも寒いのに暖房をケチったり暑いのに冷房をケチるのは健康に悪い。
最近911テロに関してPULL IT
(ボーイングの行方)http://www.nbbk.sakura.ne.jp/というページを眺めていわゆる陰謀論とか陰謀説いうものに疑問を持つようになった。地球温暖化の懐疑論にも似たような印象がある。地球温暖化説に疑問を覚えたのは1997年頃に
大学の講義で太陽が専門の日江井先生が温暖化の原因について太陽の活動が活発になっているから二酸化炭素が原因かどうかはわからないという指摘をしていたのが最初のきっかけで、もう10年以上も経過しているから最近の流れはどうなっているのだろうかと気になった。人類が排出する二酸化炭素に温暖化の主要な原因を求めること自体は間違いなさそうな状況、嗚呼残念だ、地球からみたら人間なんて小さな存在と思っていたのだけど、そんなに小さくも無いということか。
それはそうと
YouTubeで「不都合な真実 アルゴア 世界一受けたい授業」(http://www.youtube.com/watch?v=002WOWktzOQ)を見たときに「地球がはじまって以来、最大の危機」というような表現を使っていたのが気になってしまい文句のひとつも言いたくなった。人類にとってはキューバ危機の方がずっと大きな危機だったのではないだろうか。
(2010.2.21)
聖書の権威を守るために間違った解釈で科学を利用するのは悪いことです。
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言 3:6)こう書いてあるから宗教と科学の分離を拒否するのでしょうか。
その一方で政治と宗教の分離は認めるのは不公平な気がします。 けれども、次の御言葉が政教分離の根拠とされていることを知りました。
するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。 そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。 (マルコ 12:17)(マタイ 22:15-22)(ルカ 20:20-26)それなら、カイザルを科学に読みかえても良いのではありませんか。
科学は、一方的に利用される立場だということでしょうか。
けれども、あなた方は創造科学を利用してまで自分達の信仰を正しいと
主張するくらいです。政治に対しても同じように手を伸ばすのではないかと
不安を感じます。実際に学校教育では進化論と同様に創造論を教えるように
裁判を起こすくらいの潜在力を持っているのですから。
私はとても不安を感じます。
政治のことはよく分かりません。政治なんてそんなものと割り切って投票しますか。そうゆう信者さんが人口の高い比率を占めていればそうなるんでしょうから。
科学でないものを科学として教えられる子供はどうなるのでしょうか、心配です。 科学のことで優れた賜物を受けていても、間違った教育を受けてしまったら、 神の栄光を現すことができなくなるのではないでしょうか。
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、 迫害を受けます。」(II テモテ 3:12)私は教会によって迫害された科学者達を思い起こさずにはいられません。 キリストを信じる者は迫害を受けると書いてありますが、 今度はあなた方が迫害する側になっているのではありませんか。
地動説が聖書に反しないのに対し進化論は聖書に反する点、 進化論を主張しても刑罰を受ける心配がほとんどない点で、 地動説と進化論は状況が全く違います。
しかし、あなた方の行動は全く同じです。
全く同じではないだろう 、人によって考え方違うから。でも結局のところ伝道する側の立場の人にとっては科学的な正確さなんて優先順位が低いんだよ。自分達の信仰が固められれば問題は解決なのだから。科学の力を借りないと魅力的な宣教ができないとしたら悲しいね。悲しいけど科学の魅力が神様に勝ってしまうのか。
表現を変えると、科学的な正しさを最優先に研究しているまともな科学者と、それよりも宣教や信仰を最優先にしている素人とが科学の土俵でケンカしようとしても勝ち目ないのが分からないのかな?若いときから金属棒の直径を計るだけでも有効数字下2桁位は正確に測れるような訓練を受ける人達だよ。それが成長してセファイド変光星とかを使って宇宙を測っているんだ。科学は全て仮説の上に成り立っているってのは事実だけど、使っている精度が全然違うんだから勘違いした自分勝手な解釈は駄目だよ。
そういえば本当に全て仮説の上に成り立っているのかな?強い仮説と弱い仮説かな?聖書に書かれた天地創造が正しいのだから現在の科学の説明は正しくないと言う創造論者のおかげで「そういえば科学についての正しい理解とはなんだったのだろうか」と思い直して普段は勉強しないのにちゃんと調べようと思って文献を探したりと前向きな行動が取れるのは良い事だ。
富を科学に読み換えることが許されるなら、
科学が正しいと信じるなら信仰は持てないのだと考え、
神を尋ね求めるのは諦めるべきなのでしょうか。そうかもしれません。
「聖書は全て神の御言葉、全てが正しい」と考えるのが、
本来の正しい信仰のあり方でしょうから。
これも、たぶん解釈が違うと思う。別にお金持ちになるのが悪いことだとは教会は教えていないし、むしろ喜ばしいこととして祝福されると思う。そうではなくて、お金とか科学とか、そういったこの世のものが神様よりも大切だとしたら、それは偶像を拝することだから悪い。これが教会の教えだろう。
信仰が必要になったので教会を訪ねました。そこは 生物進化論を拒否する保守的な福音派の立場を取る教会でした。
現在でも宗教対科学の論争が続いているとは知りませんでしたから、 創造科学を持ち出されたことや進化論教育が世の中を悪くした と信じている人が身近に存在していることに驚きました。
そして創造科学について調べてみると、とても悪いものだと分かりました。
創造科学は氷山の一角に過ぎないと思います。 聖書と科学の両方を知っている人間なら、誰だって空想の翼を広げるものです。 私だって空想します。しかし、それを信仰の道具として利用する人間が 実在することに私は強い懸念を感じます。 ようするに「無意味な詮索を引き起こす原理主義」が嫌いなのです。
私には創造科学の誤りを科学的に正しく指摘するだけの能力がありません。 けれども求道者の視点から、創造科学を主張することは 聖書の教えに反していると指摘することにしました。
救いを求める人がこのページをきっかけに 原理主義につまずかないことを望みます。 また、既に救われている人にとって このページが信仰の妨げにならないことを望みます。
引用には新改訳の聖書を使いました。
当時は、創造科学くらいしか目につかなかったけど、やっぱり宗教ってのは思想と思想のぶつかり合いなのか、ギスギスした所があるのは止むを得ないのだろうか、創造科学以外にも教会でも「教会のあるべき姿論」とでもいうのか、もっと頭を悩ます問題がたくさんあるみたいね。
嗚呼そうだ、謙虚な気持ちが大切なんだ。自分もけっこう議論が好きなのだろう。自分は創造科学が主にプロテスタントの福音派の原理主義寄りな信仰を持つ人々の産物という認識でいるから、「自分の教会の方が優れている」的な発想に陥り易い。正教会だってあんまり科学的な所は強くないと思うし。
でもやっぱり聖使徒以来の教えをどこまで正確に伝えているかは別として一生懸命「正しく」伝えることを中心に伝道してきたのだと感じるし、頭で記憶するだけでなく体で生活で記憶し続けて来たことを思うと、意外と高い精度で教えが遠い過去から現在まで伝わって来たのだと、ちょうど一年ほど前の赦罪の晩課の時に思ったのです。
文献だけでなくて、教会での習慣としてもイイススの復活があったんだなということを記憶するための様々な工夫がなされているのは驚異的だと思いました。科学的な根拠は別として教会の伝統とか奉神礼の仕組み等を教えてもらったり聞いたりしていると、教会ってものすごく馬鹿馬鹿しいことに呆れ返る程の労力を割いているのだけど、ここまで冗長に行っている様子を見ていると、もしかしたら本当に復活というのがあったのかもしれないなと思えてしまうのです。あんまり科学的ではないかもしれないけど創造科学よりも説得力があるのではないだろうか。
天にいます私たちの父よ。御国が来ますように。
許されるなら、救われない者の声に耳を傾けて下さい。
私は、創造科学という偶像を否定するため、
あなたによって導かれたと信じます。
このような試練が与えられたことを感謝します。
私たちを、つらい、苦しい争いの中に、いつまでも置かないでください。
私たちを暗闇から救い出してください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
微妙なお祈りだなと思う・・・。でも今だって微妙なお祈りしかできない。
主、我が生命の主宰よ、我を爾(なんじ)に祈祷するに耐ふる者と為らしめ給へ。
蓋(けだし)我等は屡(しばしば)自らを正しと信じ、
且(かつ)爾の誡めを歪め、爾に依らざる自らの教えを広めんことを欲し、
爾主我が神と至りて潔き爾の母と全ての天軍並びに我が聖なる守護天使とを怒らしむ。
故に我畏れて爾に祷る。我を憐み敢て我が唇を開くを赦し給へ。
我は創造科学がサタナの造物と信ずる故に、これを忌み、
縦(ほしいまま)に兄弟を議し、人を詬(ののし)り、
或いはサタナよ爾に爾の傲慢爾の勤め爾の創造科学を捨つと唱へ、
又多くの悪を爾の目の前に行えり。皆これを赦し給へ。
猶祷る我等が爾の前に正しく歩むときも、又誤りを犯ししときも、
我等を正しく爾の誡めの道に向わしめ給へ。
蓋し我等自らの能力(ちから)にて正しき道を歩む術を知らず、
只(ただ)爾を恃む道を知るのみ。
願くは我等をこの悪しき争論と伴に滅ぼさず、常の仁愛を顕し、真の一なるを給へ。
蓋し、権柄尊敬光栄は爾と爾の獨一子と聖神とに世世に帰す。アミン。
主憐れめ主憐れめ主憐れめよ。主イイスス・ハリストス我等の神よ、
我が諸聖神父の祈祷に因りて我等を憐れめよ。アミン。