「少年聖女」を読んでみた(ネタバレ含む)

我が教会の兄弟姉妹である鹿島田真希さんの小説「少年聖女」を読んでみた。感想を書く。

後半のまとめ具合がすごく良くて感動した。「叡智」とは主人公のタマちゃんにも武史やユーリイそして僕にも、読者の私達の間にも「あってあるもの」なのだろうと思う。

他の人の感想を読むとわけわからんという意見が散見される。私なりに解説を試みる。

(ちなみに、なぜAquaなのか?水なのか?についてはギリシア神話の知識が必要になるんだけど、私はギリシア神話を知らないので大量にある水と魚、陸と海に関するエピソードを紐解くことができませんでした。)

タマはただひたすら生きていただけだが叡智つまり神の意図によってユーリイが立てられ悪い母親を退治したのだ。これはつまり親殺しの物語であろう。

タマは悪い母親に虐待されて育ったせいか頭の弱い子。タマはルームメイトのオリガの子ゲオルギイを引き取って育てる。

ゲオルギイはユーリイの別名なので物語中ではユーリイと呼ばれる。

そしてユーリイによって悪い母親は聖ゲオルギイの龍退治のごとく成敗される。悪い母親は虐待した我が子が自分同様に汚れた不幸な者であって欲しかったのにタマは全く不幸ではないこと、全く汚れていない、聖女のようでさえあるということを見せつけられ、心を破られる。

聖ゲオルギイ

実際問題子供を虐待する親は子供にとっては強大な敵であるが、大人になり知識を得ると、立場が逆転し、自分を虐待した親が小さく弱い存在であることを知るようになるのに似ている。

巨大な強敵と思われた母親は実際は弱々しいとるに足らない相手だったというのは龍退治の伝説同様で聖ゲオルギイのイコンを見れば分かるが悪い龍は馬より小さな蛇みたいな軟弱な姿で描かれているのに被る。天国への階梯で知られる階梯者聖イオアンのイコンも同様で階梯を登ろうとする人間を誘惑する悪魔は軟弱な姿で描かれる。

天国への階梯

後半は前半のような波乱はなく、ある意味ではユーリイという叡智を介したタマの復讐劇と言えるだろうから、武史や僕はその立会人であろう。たぶん武史は神の母マリヤの夫イオシフ(ヨセフ)に近い、幼少期のキリスト(叡智)を守り育てるという役割が与えられたのかもしれない。

叡智とは全能者キリストのことを指すから物語中で語るにはスケールが大きすぎるだろう。だからその片鱗、物事の理、摂理、「復讐は神の仕事である」という知恵、叡智の片鱗を描いたのだと思う。

もしかしたら、叡智が神であるキリストを意味するなら、神は愛である。愛というものの種類には、互いによく知っていて常に一緒にいる師弟関係のような愛がある。タマちゃんと武史にしろユーリイにしろ、この愛は単なるエロい関係ではなく師弟関係に近いのかもしれない。たまたま欲に押し流され性的関係を持っているだけなのかもしれないが、俗な私達にとっては欲に押し流される運命の方が叡智に近いのかもしれない。自己の無力さを知るという点で。

これは聖書的な物語なのだ。キリスト教の話にしては助平な表現が多いと思われるかもしれないが聖書だってエロい話はたくさん載っている。人間は天使と異なり肉体を持った存在であるから性欲などの欲は否定されない。

同性愛的な表現も気になるかもしれない。確かに反キリスト的かもしれないが、べつに同性愛を推奨しているのではなくて、たとえ反キリスト的と言われようとも俗人はひとたび激しい愛欲に飲み込まれてしまえば、たとえそれが背徳的とされるものであっても、どんな聖書の言葉も、無力である。

育て親のタマをユーリイが犯すシーンは近親相関チックで、必要性については疑問は残るが、どんな罪を犯してもタマの聖性は失われないという話の流れだから必要な場面だったのかもしれない。

こうやって考えを進めると、様々な醜悪な災難がタマちゃんに降りかかるのは物語に必要なことだったのだと思う。どんな醜悪な運命もどんなに醜い罪でも、タマちゃんを、というよりは人間を、穢(けが)すことはできないことを説明するためには醜悪な環境がなければいけない。

闇は光には勝てないのだから。

そしてタマちゃんひとりではなく支えてくれる武史という夫がいて、復讐というか、悪い龍退治を実行するユーリイがいなくては親殺しの物語にならないのだと思う。

おそらく武史は愚かなので母親という龍を退治するなんて発想ができない。だから単純にタマちゃんを愛するという愚直だが正しい道を選べたのだと思う。もし武史が復讐を企てたりしたなら物語は台無しになるだろう。怪しい公園で演説したように母親を相手に説教を始めたかもしれない、しかし、そんなことでは倒せないはずだ。

タマちゃん自身はただ懸命に生き延びたことが素晴らしいのだ。生き延びて、復讐などとは思ってもいないだろうしそんなものは叡智とやらに任せておけばよい。決して不幸ではないし、どんな悪も罪も彼女を穢すことはできないのだから。なにも考えないで、その日その日を懸命に生きていれば良い。

そうして、タマちゃんの母親は娘には自分と同じ汚れた者となることを望んで虐待を繰り返したのに、なんの汚れもない娘の姿を見て、この上なく打ちのめされたのだ。

娘は自分と同じにならなかった。自分は痛く醜い悪に満ちているというのに。娘は、あんなに苦しめてやった娘は、汚れという点では、何の影響も受けなかった。音痴でドジで頭が悪くて不潔で不品行を繰り返している誰から見ても不幸のどん底なのに、そんなタマちゃんがAquaという名前のゲイバーの舞台で見せた姿は全くの無垢の少年聖女であり清い存在だったのだ。

結論は、愛すなわち叡智によってタマちゃんの義理の息子ユーリイが、英雄聖ゲオルギイの伝説をなぞるように、タマちゃんを襲った悪い龍である母親を退治する親殺し物語の一種なのだ。愛によって悪い親にかけられたタマちゃんの呪いを解く物語なのだ。

ユーリイは、あたかも裸を暴くかのように、タマちゃんの母親の脆弱で汚れた無力な姿を「知った」のだ。

ユーリイがそのこと、すなわち悪い龍が退治、というよりは自滅したことを見届けて物語は終焉に向かう。

呪いは解かれ、物語の前半のような波乱はもはやなくなる。毎日曜日の祈祷の最後に読まれる「平安にして出ずべし」といった心境になる。私達は物語の終焉を見届けて自身の生活に戻るのだ。

なかなかうまい、大したまとめ具合ではなかろうか?作者の鹿島田真希さんの力量であろう。そして編集・出版関係者の努力の結果であろう。大変よい作品だと思ったのでした。

おまけとしてチェルノブイリの代表的なイコンのひとつを紹介しましょう。
https://iconreader.files.wordpress.com/2011/04/68997m.jpg

とりあえず、感想は、こんな感じかなぁ。

おわり。

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