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科学と信仰は両立可能か?

木村真之介の解答:

人間の能力では科学と正統的なキリスト教の信仰を両立させることはできない。

しかし、「神にできないことはない」という信仰によってのみ両立させることができる。

ただし、自分の力ではどうすることもできないという遜りと神への信頼が伴わないならば、この解答は詭弁に過ぎない。

おわり。

別解:

信じていることが科学的に正しくないことを知りながら信仰を捨てない人というのは、 頑迷なだけかもしれないが、 奇妙なことに科学と信仰を両立させていると言えなくもない。

おわり。

前提条件:

信仰があること。信仰を捨てないこと。

事実は事実として認め現実の世界に背を向けないこと。

科学に限らずこの世のあらゆるものが信仰とは相容れないと知っていること。

正統な教えとされているものを改変しないこと。

科学と信仰を分離して考えていないこと。※

はじめから不可能と決めつけて問題から逃げないこと。

具体的な解決策があるという希望を捨てないこと。

実際に自分で努力して解決方法を探求していること。

どんなに努力をしても自分の力では解決できないことを痛感していること。

「神にできないことはない」という論理的に正しいというだけの解決ではなく、 実際に役に立つ解決が与えられるに違いないという神への信頼と希望を持つこと。

解決を信じて祈祷を怠らないこと。

※冗長な補足説明:

「科学と信仰は両立可能」と言いたいがために 「科学と信仰を分けて考えるべき」または「同列に扱うことはできない」 という説明のやりかたは問題の解決になっていない。

このような表現は論理的で正しい考え方のようだが 実際には問題を見えにくくするだけの役立たずな言葉のあやでしかないと思う。 我々が直面しているのは 「宗教と哲学と科学では取り扱っている範囲が違う」 というだけで済む問題ではないはず。

キリスト教徒は「聖使徒は復活した主の姿を肉眼や手で触れて観察し復活が事実であることを確認した」と信じている。

実際に観察したのだから科学的事実と同質で、 いちいち「科学的」という必要もないくらいの事実だと思うのは当然である。

しかし、当事者にとっては「科学的」事実でも、 後世の我々にとっては常識的あるいは科学的に考えれば起こりえない事象である。

したがって、我々としては各個人の判断で科学的に「信じない」か、非科学的に「信じる」か、あるいはギャンブラーの理論で「信じることにする」かを選択することになる。これも当然である。

主の復活は創世記における人間が犯した罪の結果である「死」に打ち勝つためのものだったと伝えられている。

だから、主の復活が事実なら創世記における人間の罪と死に関する記述も事実として受け止めるのは当然である。 これを否定したら我々の信じている永遠の生命もないことになる。

そしてもちろん創世記の記述も聖書に記された他の奇蹟も科学とは両立しない。

つまり結局のところ常識的には科学と信仰は両立し得ない。

どうしても両立させたいのであれば「神にできないことはない」のだから 「神様なんとか両立させてください」と祈願するくらいしか方法はない。

それに、必ずしも理路整然と厳格に論理的で科学的に正しく両立させる必要はないように思う。

ただ単に「天国で神と共に永遠に生きるものでありたい」という希望を持って残りの人生を過ごせば良いだけなのではないかと思う。

どうして科学と信仰を両立させようとして色々な新理論を打ち立てる必要があるのか疑問を感じる。

だから、いったいなにがしたいの? 「結局なにが問題だったの?」と問い直したい。

そして恐らくその答えは、 私の場合は「正しい信仰のありかたについて考える訓練をしてみたかった」 ということになるのだろう。

なるほど、そう考えればこの問題に取り組むことは必ずしも悪いことではない。

しかし、この程度で納得できるなら大した問題にはならないはずで、 実際には信仰を捨てたくなるのは当然と思えるほどの大問題であった。 だから、この問題について取り組むことは永遠の生命を失うかもしれないという危険の伴う作業だと考えて慎重になるべきだと感想を持った。

かといって問題を認識しながらウヤムヤにし続けるのは 正しい信仰を持つことにつながらないと思うので 信仰面での成長に応じて霊的指導者に相談しながら熟慮を重ねていくのが良いと思う。

それで結局やっぱり当たり前の結論にたどり着いてしまった。自分の神父に相談しろと。

おわり。


2012.05.15